コラム

リサーチの神学論争Ⅵ「エスノグラフィー」

エスノグラフィーの重要な概念のひとつに参与観察があります。簡単に言うと観察対象の中に入って観察するということです。ヨーロッパ社会が、彼らが未開と考えた社会に出会ったとき、ヨーロッパあるいはキリスト教の価値観で高い視点から客観的にこれらの未開社会を観察したのです。
そこで観察できる事実は、自分達から比べて、遅れた、貧しい、奇妙な習慣をもった人々、あるいは社会という観察以前から「わかっていた」ことだけでした。
進歩をもたらし、経済的に豊にし、西洋の常識に合った社会行動を取らせようと蒙を開いて教育してあげようというお節介なお人好し丸出しの観察だったようです。
宣教師達の布教も目的のひとつだったことが一層こういった傾向を強くしたようです。

そうした中、文化人類学者を中心に未開社会をありのままに観察・理解しようという機運が生まれます。そのために未開の人達と一緒に生活して内部から観察するという方法論が出てきます。長い人は数年にわたって一緒に生活しながら観察・研究を続けました。この研究の頂点に位置するのがレヴィ・ストロースの著作群かもしれません。特に
「冷たい社会、熱い社会」という概念は画期的なものでした。

この観察対象の生活に入り込んで観察するという参与観察の方法論をマーケティングリサーチに持ち込もうという傾向が最近強いようです。単なる流行でないなら何故、今、そういったことが注目されるのでしょうか。リサーチャーも生活者の一人であるから国内市場(日本人相手)であれば、自動的に参与観察できるはずです。というより参与観察しかできないはずです。

ネスレやP&Gなどの開発担当者が日本人の生活が普通のインタビューだけでは理解しずらいので「参与観察」したいというのであればある程度理解できるかもしれません。私が考える理由のひとつはモデレーターの参与能力の欠如です。インタビューで、対象者の(心の)中に入り込めるはずなのに最初からその意欲がないモデレーターが多くなったのではないでしょうか。
インタビューそれ自体に「入れ込んで」しまって、「いいのか悪いのか。好きか嫌いか」はっきりしろと言わんばかりに対象者に迫っていてはインタビューとはいえません。対象者の(心の)中にいったん「入り込んで」共感性を充分に共有してから冷たい観察をすればよいのです。この入り込むことこそが「参与」なのです。改めてエスノグラフィーと言わなくても我々モデレーターはエフノグラフィックなインタビューを行っているはずなのです。

「入れ込まないで入り込む」がモットーですが、天才アラーキーは「入り込んでしまっては何も見えない。踏み込むんだ!」と叫んでいましたが、確かにそうとも言えそうです。対象の心理の中に(土足ではなく)踏み込む覚悟も必要でしょう。

2009,7

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